縁とは何か。筆者は、物事と物事の関係の元となるもの、と解釈しています。あらゆる存在は無数の因縁によって成り立っていますが、これは仏教で言うところの「縁起」に当たります。今回は縁についての話です。

なお、この縁というものはどこから来るのか、という議論は今回しません。縁は存在するものとして話を進めていきたいと思います。

 

人との縁、例えばこれまでどんな人に会ってきたのかという部分だけ見ましても、それは現在のその人の人格や思想はもちろん、私生活から仕事に至るまで多大な影響を与えていると思います。人に会って、見て、話して、何を思ったのか、何を感じたのか。会っている最中に思う事柄もあれば、別れた後に思う事柄もあります。意識に浮き上がる事柄は様々でしょう。何げない事に感銘を受け、それが後の生き方を変えるという事もあります。筆者にしても、ふとした縁で始めた写真を仕事にするとは思いもしませんでした。多くの人との縁があったからこそではあるものの、「君はプロとしてやれると思うよ」という写真の先生の一言がなければ写真家になっていなかったと思います。後々振り返りますと、「あれは縁としか言いようがなかったな」「縁とは面白いものだな」と思うことがよくあります。

 

縁によってもたらされた状況とどう向き合っていくかということですが、やはりいかに冷静でいられるか、素直でいられるかが大事だと思います。例えば不快と感じる出来事が起きた場合、感情的になって起きてしまったことにあれこれと言い訳するのは問題の本質からどんどん離れていってしまいますので、オススメできません。またいつまでも固執していますと、事態が進展しないということもあります。快適と感じる出来事が起きた場合でも同じです。その時抱いた感情を持ち続けることは心地よいのかもしれませんが、いつまでも過去の栄光にいつまで浸っていては現在を見失うことになりかねません。目の前に転がっているチャンスが見えなかった、というのは残念です。「私は感情的になるのが好きだ。それでこそ人間だ。」と主張される方がいらっしゃるかもしれませんが、私なら、さっさと終わらせて次へ向かうことをします。次に起こるのは何だろうかと楽しみにしていた方が、より多くの経験ができるような気がするからです。またそれが次なる縁につながっていくのだと思います。

 

自分にとっていい縁と思えるような縁が巡ってくるよう働きかけることはある程度できるかもしれません。「徳を積む」と言われる行為はそれに該当するような気がします。それを難しく感じるようでしたら、自分が善と感じる行いを為せばよいのではないかと思います(個人的法益を侵す・人に迷惑をかけるなど独り善がりな行為は駄目です!)。身近なところで言えば、家で採れた野菜をお裾分けする、落ちているゴミを拾うなど。人が見ていようとそうでなかろうと、為すことを為す。この姿勢と実際の行いが種となり、その積み重ねが新たな縁を呼ぶように感じます。