第1回は写真の話です。
写真家を名乗る以上、初回は写真の話の方がいいかなと思いました。
いい機材を揃えれば、きれいな写真やいい写真が撮れるんじゃないか、とか
高そうなカメラや大きなレンズを持って撮影している人はきっと素晴らしい写真を撮っているに違いないだろう、とか
思いがちかもしれません。(今回は、綺麗な写真とは何だろう、いい写真とは何だろうという話は置いておきます。)
確かに高額なカメラやレンズには高性能なものが多く、適当に撮っても綺麗な写真が撮れる事が多くなりました。高額なレンズに描写力の高いものが多いのは事実ですし、最近はAI技術の進化により、素早く動き続けるもの、例えば野鳥やスポーツ選手など、カメラが自動でピントを合わせ続けてくれるようになりました。色味を鮮やかにしたり、昔のフィルム風にしたり、「荒っぽい調子」にしたりと、好みに合わせて手軽に変えられるようになりました。また撮影後の現像ソフト編集により、まるで別の写真かのように変えることもできるようになりました。
これらはとても便利で私も場合に応じて使用しています。正直これらの技術がなかったらこれまでの発表作品数は半分くらいになったかもしれません。技術の進歩はすごいなあと、日々感心させられます。
ですが、自身のイメージする画を撮影できなくては意味がありません。機材を所有する事が目的な方はともかく、写真家なのですから、その方にしかできない作品を作れなくては。自分が「いいな」と思うシーンを撮影できること、そのためには「その場に居合わせられる」必要があります。
例えば、私は馬を撮影するのですが、まず馬を撮影するには牧場さんとのお付き合いがなければ難しいですし、いざ馬を撮影するとなっても、馬の仕草や動き、位置など、馬がいつも私が「いいな」と思う構図にいてくれるかどうかはわかりません。複数頭撮影する際、全ての馬の顔が写っているか、脚は4本映っているか、脚の形はどうか、耳の形はどうか、建物が写り込んでいないか、など気にかける事がたくさんあります。馬が全く動かない時もありますし、「馬が相撲を取っている」のでそれを撮影しようとしていると、他の馬が戯れにきて全然撮影できない時もあります。カメラを向けていない休憩中に突然「いいな」と思う瞬間がくる時もあります。また放牧地の状態は季節によって全然違います。タンポポが咲く時期、シロツメクサが点在する時期、新緑の薄緑色が映えわたる時期、段々と色褪せた草が増えていく時期、降雪で一面白く覆われる時期など、さまざまな牧場の姿があります。そういった中で、自分が「いいな」と思う瞬間を撮っていきます。
これは昨年の冬の話なのですが、馬を撮影するため牧場へ行ったところ、思ったよりも放牧地に雪が少なく、ところどころ土が露出している状態でした。よく見ると、土だけでなく馬の糞もちらほらと目につきます。褐色のそれらは雪が白い分、余計気になります。何日か撮影を続けたのですが、日中暖かい日が続いたので、せっかく雪が降ってもしばらくすると溶けてしまうという日の繰り返しでした。良さげな感じの写真は何枚か撮れたのですが、地面の状態が自分のイメージとかけ離れており、どうも気になります。「まあこういう時もあるかー」と滞在最終日を迎え、牧場を離れました。その2日後北海道を発つ予定だったのですが、寒波の影響で搭乗予定便が欠航。急遽滞在を伸ばすことになりました。ひょっとすると放牧地の状態が自分の良しとするイメージに合うかも、幸いしばらくスケジュールは空いているし、取り敢えず牧場さんにコンタクトを、ということで牧場さんに連絡したところ、急な申し出にも関わらず再滞在OKの許可をいただけました。訪問してみると、土や糞が見えないのはもちろん馬の足跡も無く、辺り一面真っ白です。天気も程よく、光の条件も十分でした。おさげさまで「いいな」と思える写真が何枚か撮影できました。こういうことがしばしばあります。
目的に合わせた機材を持っていることは前提として、カメラや写真以外の事柄、昨冬の件でいえば、人とのコミュニケーションを大事にする、滞在する時期を考える、馬の気分や動きを想像するなど、自分なりにできることをした上で、あとは「その場に居合わせられる」よう、あれこれと余計な事は考えず、流れに任せるのが最善なのかなと思います。「人事を尽くして天命を待つ」ということでしょうか。これからも自分にできることをできる範囲内でした上であとは任せる、という心境を大事にしていきたいと思います。
※なお、沖縄には「なんくるないさー」という言葉ありますが、あれは本来「人事を尽くして天命を待つ」という意味に近いそうです。意味をわからず使っている人が多くなったと沖縄のおばあが嘆いていました。